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「生きていますよ〜」父が闘病中、自分のお腹がグルグルいっているのを聞いて、お腹を指差してこういいまし…
「廊下」病院の廊下が、花道に見えたことが2回あります。1度目は、長女を出産後、車いすで病室にもどった時…
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私はリレーフォーライフ芦屋というイベントのスタッフをしています。

リレーフォーライフ(以下RFL)というのは、がん患者さん支援のイベントです。
1985年にアメリカでマラソンが得意なひとりの医師が、大学の陸上競技場を24時間回り続け寄付を集めたのが始まりです。
私自身、父を大腸がんで亡くしたことがきっかけでスタッフになりました。

日本でのRFLは2006年に筑波で初開催、2007年には芦屋で日本で初めての24時間開催が実現しました。
わたしは、その時から芦屋スタッフとして参加させていただいています。

ここでは、父との思い出、RFLで感じたことなど書いていこうと思います。

3人に1人が がんで亡くなる時代、誰にとってもひとごとではないはずの病ですが、私たち家族は父ががんを宣告されるまで、がんは全くのひとごとと思っていました。
でも、父が宣告されたその日から、患者家族になり、そして遺族になりました。

今もがんと向き合って、がんと共に生きるサバイバーのみなさん、そしてサバイ
バーのみなさんと共に闘っているご家族のみなさんがたくさんいらっしゃること
と思います。

そんなみなさまへの、応援と祈りの気持ちを込めて、綴っていこうと思います。

ページをめくっていただければ幸いです。
その昔、祖父の入れ歯を洗ったことがありました。丸い半透明のケースの中に、祖父の総入れ歯はいつも…
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2008年9月RFL芦屋にて
ホスピス転院予定の2日前だったでしょうか。朝、病室に向かう途中、看護士さんから「お父様、荷造りして…
子供の頃、父の書斎にもぐり込んで、こっそり父の本を読むのが好きでした。何を読んだのか、今となっては…
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身近な誰かを失った時、心の平穏を取り戻すことは難しいことです。「心の平穏を取り戻されることを、お祈り…
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父の故郷は新潟です。私も結婚するまで新潟で暮らしていました。「とき」は、新潟県の県の鳥の…
とてもとても不謹慎な事ですが、父が がん とわかった時「チャンスだ」と思う気持ちが私の中にあり…
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父の入院中、ある事がきっかけで“余韻の残る介護をしたい”と思うようになりました。
「ちょっと留守にするだけだ」手術のため、京都に出発する前日に、父は母にこう言いました。
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腰が抜けるって、こういう状態の事をいうんだなあ。父の居るホスピスに母を連れていったその時、私は…
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3度にわたる腸の手術を終えてから、「もう何でも召し上がっていいですよ」と言われるようになるまで…
新潟の家は、海の近くでしたので、夏休みには父とよく泳ぎに行きました。
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父ひとりで、新潟で がん告知をうけてから数日後の事だったと思います。私は金曜日の仕事を終え…
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3度にわたる腸の手術を終えてから、「もう何でも召し上がっていいですよ」と言われるようになるまで…
今までで一番、誰のレントゲンを多く見てきたかといえば、父のレントゲン写真かもしれません。
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ホスピスに転院して良かった事のひとつに、食事の自由がありました。
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・・・
以下、続けていきます。
娘を二人とも学校を休ませて、一日中ホスピスでの父の付き添いを任せたことがありました。
父がホスピスで過ごしたのはたった1週間。でも、感覚としては3週間分、いえ3ヶ月分くらい密度の…
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よく聞く話ですが、父が がんの告知を受けた後、私も “父の前では泣かない”と決心しました。
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「リリー・マルレーン」「シクラメンのかほり」「知床旅情」…父が好きだったと思われる曲です。
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